武将コラム
Vol.2

西三河の風雲児
松平 信光
Nobumitsu Matudaira
松平家の飛躍をもたらし、西三河に不動の地位を築いた英傑
「偉大なる松平の父」の姿に迫る
松平 信光(まつだいら のぶみつ)
のちの家康へと連なる松平家を飛躍的に発展させたのは、三代目である松平信光といわれています。西三河のうち1/3を支配下に置いたと伝えられ、室町幕府との関係を築きつつ三河各地の松平一族を束ねた人物です。85歳まで生きて、48人もの子を成したともいい、松平家の土台を堅実に築いた信光の人生をご紹介します。
初代からの思いを受け継いだ三代目・信光
1404(応永11)年に加茂郡松平の地で誕生した松平信光は、松平家発展の基盤を作った人物です。父は、松平初代親氏とする説が江戸時代以来有力で、幼少のうちに父が亡くなったあとは、二代泰親(父の弟)の養い子として育ちました。彼には足に障害を持った兄がいたと伝わります。この長男である兄が松平の本家を継承し、次男信光は、額田郡岩津の地に移って新たに岩津松平家を興しました。次男信光の流れが家康へと続いていくので、三代目と称されるわけです。
もともと松平氏は、初代親氏を婿として迎える以前から道や橋を造る技術をもって三河各地で活動していました。初代親氏は、肥沃な土地を得るべく、松平の東南にあたる乙川の上流域の中山間地である中山郷(岡崎市)に進出したと伝えられます。これは土地を買い取っての進出だったと考えられています。
一方で、松平の西南にあたる矢作川流域の平地へ向けての進出開始を告げるのが、岩津への進出ということになります。
松平から岩津に向かうには、大給・九久平を経て、あるいは郡界川沿い(大給の里道)を経て巴川を下り、矢作川流域に出るのが一般的なルートです。
ところが、江戸時代になってからまとめられた『三河物語』『参河八代古伝集』などでは、どういうわけか、二代泰親の代に岩津城を攻め取り、三代信光が大給を攻め取ったとされています。巴川流域には、大給の長坂、中垣内の宇野、岩倉の戸田という手強い勢力がいてままならなかったとも伝えています。
岩津への進出が武力を背景とした者であったなら、これはありえないでしょう。
――いったい、岩津進出には、どんな歴史が秘められているのでしょうか。
「大給・保久攻め」
岩津城主となり、いよいよ三代目として岩津松平家の舵取りをする立場になった信光は、まず「大給・保久攻め」に乗り出したと伝えられています。
大給の長坂氏は、巴川の舟運をおさえており、中山郷中の保久の山下氏は比較的豊かな山村としてそれぞれ経済的基盤を持っていたうえ、両家は婚姻関係で結ばれており、手強い相手であったといいます。もっとも、『三河物語』では大給、保久を攻め取って、次男・乗元に大給の城を与えたというのみで、攻め取った相手の名前は記されていません。
実は保久の山下氏とは、「奉公衆」と呼ばれた将軍の直臣であって、江戸時代で言えば旗本格の武士です。信光はというと、幕府政所(将軍の財産を管理する役所)の執事(長官)を代々務める伊勢氏の被官(家来)となっており、「松平和泉守」と呼ばれていました。信光の立場は将軍の家臣である伊勢氏のそのまた家臣ですから、身分は山下氏の方が上です。山下氏を武力で攻撃したなら、幕府の処罰は免れません。――「保久を攻め取った」というのは、どうやら事実を相当に膨らませた表現のようです。
信光と同じ頃に「松平加賀守」と呼ばれている人物も伊勢氏の被官となっています。つまり、信光の同輩です。ところで、大給松平家の初代・信光の子とされる乗元は、加賀守を称したと伝えられています。――? 実際の歴史は、かなり複雑に入り組んでいるようです。
そもそもはというと、足利氏が鎌倉時代に三河守護を務めた経緯から、室町時代の三河には「御料所」と呼ばれる将軍直轄地が多く置かれていました。二代泰親の実子である松平遠江守益親は京都で公家や武士を相手に金融業(金貸し)を営んでいました。こうした経緯を背景にして信光や松平加賀守は、伊勢氏の被官となり、三河の御料所の管理に従事していたと考えられています。御料所の管理には奉公衆もかかわっていました。
つまり、信光は、室町将軍家の財産を管理する伊勢氏の家来という立場をフルに生かしつつ、山下氏や加賀守を名乗った大給松平家ら、三河の有力者たちとの間に人脈を形成し、西三河のうち1/3といわれるほどまでに土地利権を集積していったというのが、真相のようです。
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- 大給城
- 大給城は、1400年代から1500年代後半にかけて、軍事的に重要な役割を果たした大規模な山城と言われています。
額田郡「牢人一揆」を鎮圧し、松平諸家を束ねる
信光63歳。さらなる飛躍を望んでいた信光に、絶好のチャンスが訪れます。
それは、1465(寛正6)年に額田郡東部で起きた「牢人一揆」。
「牢人」とは、仕えるべき主人を失った武士のこと。江戸時代には浪人とか浪士とも表記しました。「一揆」とは、違法であるなしを問わず、対等の関係で結束した集団やその行動のことを言い表した言葉です。
当時、武士たちの土地支配に関する権利は、幕府や守護によって保証されていました。そうした公的に承認された主人を持たずに、勝手に実力で土地支配を行えば違法行為として幕府・守護によって処罰されます。この年、額田郡東部で牢人たちが結束してこうした違法行為を繰り返しました。
悪事を働いていた牢人たちに手を焼いていた三河守護・細川成之が、室町幕府の政所執事である伊勢貞親に一揆の鎮圧を要請しました。守護は、信光の「親類・被官」たちが、この一揆の者どもをかくまっているのではないかと疑っていました。貞親は、ともに自身の被官である信光と三河国渥美郡田原を拠点とする戸田宗光に対し、牢人一揆鎮圧を命じました。鎮圧に成功した信光は、幕府の信頼を得ました。
さて、守護側がいう、信光の「親類」とは、中山郷から乙川をさらに下った岡崎市域や蒲郡市域の平野部―岡崎・大草・竹谷・形原などに進出していた、信光と先祖を同じくする松平一族を指しているようです。これらの地域と牢人一揆があった地域が近接しています。
信光は牢人一揆を鎮圧する過程で、この「親類」松平一族を束ねることに成功しました。牢人一揆の舞台となった地域には、のちに信光の子孫が、五井松平家や深溝松平家を興しています。また、ともに戦った田原の戸田宗光とも縁戚関係を結び、三河国での勢力を飛躍的に伸ばしてゆきました。
敵の目を欺くアイデアで無血開城作戦!
京都で応仁の乱が起こったとき、69歳となった信光の立場は、幕府政所執事伊勢氏の被官なので当然のことながら、従来からの幕府機構を保っていた東軍方ということになります。乱の余波は三河に及び、城主が西軍方であった安城城を奪い取ります。
この時の作戦として、『三河物語』などに奇想天外なことが伝えられています。
それは、若者数百人に華やかな衣装を着せ、安城の西野で、鳴り物入りの賑やかな奴踊りの行列を演じ、安城の城兵が見物に出払ったすきに、城を乗っ取ったというもの。
若者たちの羽織の下には、刀を忍ばせ、槍の柄を切り縮めて戦いに備えていましたが、結局は戦にならず、あっさりと城を手に入れることができたといいます。――これもどこか、彼の武力というより、政治的決着能力や交渉過程での知恵ぶりを彷彿とさせるエピソードですね。
そのころ、岡崎城主であった西郷氏の婿として岡崎城に入った松平光重を、信光の五男とするのは、江戸時代に作られた系図に基づいています。松平光重は大草を拠点として岡崎方面に勢力を延ばしていった人物で、信光の「親類」であることは確かです。
このように、信光が前二代と明らかに違うのは、京都の幕府との関係を存分に用いて、堅実に三河国内に勢力を広げていったことでしょう。これは松平氏が信光の代に、山間の一土豪小領主にすぎなかった家が三河国内有数の国人領主の家へと、大飛躍を遂げたということに他なりません。
寺社建立と「天下泰平」の願文
信光は、寺院の建立にも力を入れており、36歳の時に滝村に萬松寺(岡崎市滝町)を、48歳の時には岩津に信光明寺(岡崎市岩津町)を、58歳の時には、妙心寺(岡崎市岩津町に開かれた妙心寺は、明治初年に京都の本山浄土宗西山深草派本山と寺地交換して京都に転出。禅宗本山妙心寺とは別寺)を建立しています。莫大な費用を要する寺院の建立をほぼ10年ごとに行っているということは、相当な経済力や開山となった高僧を招請するに足る京都での人脈を持っていたということになりますね。
1482(文明13)年、77歳の時に妙心寺の仏像の胎中に納めたとされる願文には「天下泰平、国家安穏を守護す」という言葉が見られます。そして「武運を開栄し、天下の守護職となり、上は叡慮を休んじ奉り、下は国家を治め、万民を安んぜん」と続く言葉によると、「天下の守護職」つまり将軍になることを願っていたということになります!
――いくら幕府にほころびが見え始めたとはいえ、京都での暮らしも経験し、分別を極めた齢に達した彼が、そこまでの妄想家であったとは考えにくいでしょう。「この願いは、家康が将軍になったことを知っている後代の人が、偉大な信光に託した夢でしょう」という専門家の意見に、ここでは従っておきましょう。
松平庶家を束ね、のちの一族繁栄の土台を築いた信光
信光が48人もの子を成したというのは、もちろん伝説ですが、松平諸家を束ね、また三河の有力他家とも関係を築いていく中で、多くの縁戚関係を形成していったのは、史実でしょう。
次男として生まれ、幼くして父を失った信光が、叔父とともに岩津の地に新たに松平家を興し、幕府政所伊勢氏の被官となって中央政界につながったことが、のちのちの子孫の繁栄の土台となったことは疑いありません。彼によってのちの家康へとつながるこの家は、三河の一土豪小領主から国内有数の国人領主へと、大いなる飛躍を遂げたのです。
6代信忠の時代までに、松平一族は「十四松平」とも「十八松平」とも呼ばれるほどに多くの庶家が輩出します。まさに信光の偉業あってこその、一族大繁栄といえます。
時代の風雲児として駆け抜けた信光は、1488(長享2)年に岩津城で逝去。享年85歳。岩津の妙心寺に葬られ、家督は長男の松平親長が継ぎました。
のちの家康は、信光の三男親忠が安城に興した安城松平家の流れなので、親忠を松平4代と数えます。
参考文献:
「家康の遺宝展~松平から徳川へ~」豊田市郷土資料館/豊田市教育委員会/2016年